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さて最近復活の「シリーズ!私の教訓」から、今日は私が大事にしている教訓の中でも、必ずご紹介しようと思っておりました島津日新齋作「日新公いろは歌」のうち、つぎの二歌を紹介させていただきたいと思います。

似たるこそ
友としよけれ交らば 
我にます人 おとなしきひと

善き悪しき
人の上にて身を磨け  
友はかがみとなるものぞかし

「日新公いろは歌」は、私がこれまで出会った数々の教訓のうちでも、地元伝来の教訓だけに、その出会いはかなり早く、思い入れもかなり深いものがあります。
いろは歌」は、冒頭の「い」・・・「いにしへの 道を聞きても唱へても わが行いにせずばかひなし」に始まり、「ろ」・・・「楼の上もはにふの小屋も 住む人の 心にこそはたかきいやしき」、「は」・・・「はかなくも明日の命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせで」というように、「い・ろ・は・・・」すべての音(「ん」を除く47首)に、日新によってここに取り上げたような匠な教訓(武士としての心得)が編み込まれています。この「いろは歌」こそ、実は「私の教訓」の原点であるわけです(今後数編ずつでも紹介する機会があろうと思われます)。なかでも今回ご紹介した「に」、「よ」は日々私の中で反芻される大事な言葉なのです。

この両歌、「に」の大意である「友人を選ぶ時は、自分と似ている者を選びがちだが、自分を向上させるためには自分より優れた見識を持つ人を友とするのが良い。」、また「よ」の大意「人は自分の行いの良し悪しを知ることは難しいが、他人の行いの善悪はすぐに目に付く。日ごろ交わる友人を見て良いことはこれを見習い、悪いことは反省せよ。」ということからは、師としての友人、つまり己を培う存在として、また自分の誤りを知る反面教師としての友人が如何に大事なものであるかが読み解けるのであります。
まあ確かにこの年齢になって、やれ「友人」だの、やれ人間関係だのといった説経じみた話については、近年嫌う風も見られますが、私のように「人に学び人に伝う」学問を志すものからすれば、日新の「友」というキーワードは、自己成長のためには耳は痛い話ですが、たいへん蘊蓄がある言葉として大事な教訓となっているわけであります。

とはいえ結局、耳にいたい言葉が多いのは事実です・・・。「は」に詠まれた「はかなくも明日の命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせで」(用があるといって明日にのばし、明日は疲れたといって次に延ばし、一向に学問せずに日々を送るのは心得違いである。毎日毎日学問はしなさい。)という言葉は、研究の中々進まない私にとってかなりの厳しい言葉であるわけです・・・。それにしても、じっしんさん!研究進まない言い訳ぐらいはさせてほしいよなぁ〜。おれ俗人なんだから〜。

学ぶとは 俗なるものの幾つかを 捨て去る事で光る ことのは 


島津日新斎 (しまづじっしんさい)
島津家の内紛を収拾した忠良(日新と号す)は,子貴久を守護職につけ,1550(天文19)年加世田へと退きましたが,その後も行者的,学者的活動で貴久を支援しました。
神儒仏教の合一,四書五経朱子学の推奨と「伊呂波歌」の作歌で家臣団統率にあたり,近世大名としての島津氏の基礎をつくりました。日新斎の教えは,島津家の家訓として受け継がれ,薩藩士風の指針を示すとともに,精神文化の高揚に大いに役立ちました。(「鹿児島県」HP(http://www.pref.kagoshima.jp/)より転載、一部改訂)