本日は休み。
今日は母の日と比べると非常に地味な「父の日」です。
「親孝行したい時には、親は無し」なんていいますが、かく言う私は大学の4年の時、父を亡くしました。

管理職だった父は早期退職をし、単身赴任先だったF県k市mより自宅のあるM県へと戻ってきました。
戻ってきた父の顔は母と共にこれから暮らせることの喜びにあふれ、希望に満ちていたことを覚えています。

さて、父のキャラクターといえば、典型的な薩摩隼人で寡黙な中、決して余計なことは語らず、着実に仕事をする人で、本来は人に指図をするような管理職向きの人では無かったと思います。そんな父が当時流行の?単身赴任でM県を去ったのは私が小学校高学年の時です。それから後、赴任先で父にどのような師錬があったかはわかりません(ただストレスであっただろうこととしては、父の単身赴任の最中、母がガンという大病を患い死地をさまよい、その看病のために父はmとM県の約6時間の移動を頻繁に繰り返していたことです。父の努力と何より母の生命力により、母は未だ地元で大変元気にしていてくれています)。

単身赴任先からの帰郷後わずか数ヶ月後、これから悠々自適の生活が送れるというのに・・・、これまたクリスマスイブという日に、父は吐血、病名は食道癌でした。手術はとりあえずおこなわれましたが、肺への転移、もともと悪かった肝臓の衰弱が確認されており、私は母と共に余命の3ヶ月の宣告をうけました。大学時代で自由のきく私は、できるだけ父の元にいたいと思いましたが、とはいえ東京へと戻らねばならない時はきます。わたしは父にへんな希望ではなく、実情の中から生命力を振り絞ってもらうことを願い、「こんな大病をしたっちゃから、今死んでもおかしくないちゃよ。」、「ギリギリのところでも生きたいと思う気持ちが大事やちゃが。」などと慰めとも、応援ともつかぬ言葉を毎日のように言い続け、とにかく「死」というモノを意識した上で戦ってほしいと望みました。
東京に戻った私はいつか来るであろう「父の死」の知らせをただ待ちました。しかし病院の先生のいった時が来ても未だその知らせは来ません。ただ父はまだ元気にしているという母からの連絡があるだけでしたが、5月20日、とうとう父の死の知らせが届きました・・・。まあ!つらい話ですのでこれ以上は内容に立ち入りません・・・。ようは、私はある面においては、もう父親孝行ができない!ということです。
今日という日、お父上がまだご健在のみなさんへ、父親こう・こうができるのはいまのうちという心をもって接してあげてくださいね。

父の思い出、内輪げんか、煙草、「霧島」、ラッパ飲み・・・。 
 今となっては父の良い面が深く心に刻まれています。

彼の岸に 渡りし父へ送りたし 君が子はいまも息災なりと