石の島発見!
本日休み。いい天気にめぐまれましたので、朝からせっせとお洗濯。
この天気なら昼過ぎには乾くことでしょう。
さて、またしばらくブログの更新を怠っておりました。
その間、いくつか報告すべき地にも足を運んでいたのですが、その度ごとにブログを書くだけの余力もなく、ついつい更新がおろそかになっておりました。
しかし、ずっと更新しないわけにもいきません。
そこで今回は、日本城郭検定の受検のために訪れた松山、および、そこから足を伸ばしてある「島」まで行って参りましたので、その記録を書きたいと思います。
まずは松山城ですが、今回のメインは後半の「島」ですので、松山城の勇姿を2枚ほど紹介するだけに留めておきたいと思います。
この城のすばらしさ、私などがぶつくさと書かずとも十二分に伝わるでしょう。
城のある町の風情があちこちに感じられる松山の町、あこがれますねえ。
ところで私が最近、城好きが高じて、石垣となるための石を採石する産石地や石丁場巡りをしていることは、一部の方にはご承知のことと思います。
特に東京より身近な、江戸城の石垣に用いられた石の主産地である伊豆半島には、これからも足を運び、調査を進めていきたいと思っているところです。
伊豆半島から採れる石は、やや黒っぽく見える安山岩が主。
これに対して、城内の重要な石垣を構成するために用いられており、本丸だと天守台をはじめ、大名の登城ルートなどに用いられたあの白く輝く石たち、かれらの名前は花崗岩(御影石)です。
かれらが産まれたのは遠く離れた瀬戸内の島々。
「瀬戸の花嫁」よろしく、舟に乗って江戸まで運ばれてきたのです。
そんな、まさに「石の島」である小豆島に、実は私、足を伸ばして行ってまいりました!
レンタカーで高松港まで移動し、そこからカーフェリーに乗って一時間。
流れる風景をみているうちに、あっという間に小豆島がみえてきました。
まずはせっかくなので小豆島オリーブ公園へ。
どうですかこの明るさ!
本州とはルクスが違う。
いっぺんでこの島が好きになってしまいました。
しかし今回の目的は別のところにあります。
大坂城を築城する際に用いられた石のうち、城の完成によって使われることなく島に残された、いわゆる「残念石」をテーマとした道の駅、大坂城残石記念公園です。
この地は、元々は小倉藩細川家の採石場でした。
その縁もあり、公園の石柱は元内閣総理大臣、細川護熙氏の揮毫によるものです。
まずは資料館を見学。
この資料館、思った以上に収穫大でした。
石を切り出し、成形するために用いられた道具の数々がこれでもかと言わんばかりに展示されています。
素晴らしい展示物!その一言です!
そしてもちろん、残念石もズラリ。
修羅にのせられた石には、細川家のものであることを示す「田」の刻印も見えます。
このあたりには石丁場があり、切り出された石を積み出すための港があったことから、ここに公園がつくられたのでしょう。
それにしてもこの残念石たち、こんなに残されていたのにはわけがあります。
実は、切り出された石たちは幕府の所有物であることから、大名の勝手で持ち出すことはならぬ、という命が幕府より下っていたのです。
そのため、このあたりの旧地名である小海村には1236個、島全体では2815個の残念石が残されていたのです。
当時のお百姓さんたちにとって、田畑に残されたこれらの石たちは、自由に動かすことができないことから、大変に邪魔なものでもありました。
そのため小海村の庄屋(三宅家)も当時肥後熊本に転封していた細川家に対して石の移動も申し入れるのですが、結局、明治になるまで移動は許されなかったのだそうです。
大坂城の修築の際に用いられることも踏まえて、そのままの状態で確保しているという意味合いもあったのでしょうが、巨大な石を置き去りにされてしまった当時のお百姓さんたちの苦労は、大変なものであったことでしょう。
とはいえ、城郭のなかでも特別格式の高いところに使われている貴重な石ですからね。
勝手な移動が憚られたというのもわかります。
残念石、いろんな歴史を背負っておりますね。
今回は時間が限られていましたので、本当であれば石丁場(石切場)など、いろいろとまわってきたいところではありましたが、今回はなくなく3時間ほどの滞在で島を後にしました。
独り身の私は、お土産として売っていた小豆島の御影石「小豆島石」(サイコロ石)を購入し、「瀬戸の花嫁」を連れて帰りましたとさ。
次は「妻の里帰り」を口実に、このすばらしき石の島、小豆島をまた訪れたいと思います!
海臨み 業を背負った 石思い